ウィスキーの瓶を片手に池袋から富士山を目指し始めた十

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Photo by Stella de Smit on Unsplash

 

 喉に染み入る高濃度アルコールはえらく気分を薄っぺらい一枚岩の不敵なものへと変えさせた。鶏の煮込みから立ち上る湯気が鼻孔を通り、夜の繁華街のような空気の錯覚を味合わせる。

「歩いて行くの?」

「歩いて行く」

 わずかに彼の瞳の中に得体の知れない深い紺にも似た色が広がったのがわかったが、それはおそらく私自身が抱えている人生に対する想いに似ているのだと思った。通じ合えたのだと思う。ただしほんのわずかだ。

 目で見たウィスキーの氷を転がすという描写を頭の中に浮かばせながら、私は何も感じないウィスキーのグラスをゆっくりと回した。

「楽しいよ、きっと」

「やっちゃう」

 表面に張り付いた子供の笑みを肴にグラスを進めていく。やがて二人の間にはボトルが置かれ、それを分け合いながら飲んでいく。

彼の舞台の話や、なんの責任もかぶらない誰彼の話題を適当に吐き散らしながら飲んで食べた。

 後輩や他の同僚も呼び、少ないながらも小さな宴会のような様相を催した形になり、場所を彼の家へと移した。

ウィスキーの瓶を片手に池袋から富士山を目指し始めた十

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Photo by Ashwini Chaudhary on Unsplash

 

 インドの修行僧のような素朴で朗らかな笑みに手にはビールというアンマッチなバランスで現れたのは、スタッフの一人である山中だ。彼は新宿の劇団員に所属しながら、アルバイトをしつつ生計を立てている。キッチンとホールの境目にある暖簾の下から、ビールを持って現れたのは、彼が仕事を終え、バックヤードから直接客席へ来たからだ。もちろん周囲の客への配慮はしているが、仕事上がりに働いた分の何割かを落としていくのは悪い習慣として根付いている。これもみな独り身だからこその習慣だが、いつかはやめねばなるまい。

 おつかれ、と軽く挨拶しつつ隣へと座る彼を見やった。本来勤務を終える時間より二時間は早い。背中を過ぎる人の気配が少ないことからきっと売り上げは芳しくないのだろう。そもそも売り上げが足りない故に、人手が余ってしまい有給をとることになったことを踏まえれば思うことはない。

「うぇーい、富士山行くの?」

 軽薄なノリは彼なりのスタイルだ。誰とも挨拶を欠かさない真面目さを隠すようにチャラメな笑みと共にグラスをぶつけ合う。

「明日から行こうと思う」

 彼はグラスに軽く口を付けると満足そうな笑みを浮かべた。

ウィスキーの瓶を片手に池袋から富士山を目指し始めた十

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Photo by Priscilla Du Preez on Unsplash

 

 カウンター席の横にある赤い暖簾の先には、蛍光灯の光とだらけた空気がある。そこは本来職場として機能するのに相応しい緊張感があるべきだが、長年勤めたスタッフが多いこの店では、日々釣りやゲームに勤しむ大学のゼミのような空気感がある。

 そんな中で仕事をしているわけだが、皆慣れた物で電波に乗せて飛び交うオーダー表の一切を流麗な動作と共に消化していく。従来社員であれば、長くとも二年、三年で代わる所を定住したフリーターはゆうに五年を超えていく。十年、七年勤めたスタッフがざらにいるこの店はもはや正月にはこたつを囲ってミカンの皮でも剥いているかのような安心感がある。思えばそんな職場この店だけだった。訳あって今は退職し、そんなありがたみをつけ込んだような環境から離れてしまってはいるが、将来この店以上に馬の合う場所はないだろうと思った。たかがアルバイトでそんな経験ができたのは貴重なことだろう。

 だからこそ、この店にいる間は、なにかできたらと思っていた。エンターテインメントではなく、他にはない唯一無二の出来事が寄ってきたなら、そんな事を思った。今思えばひどく幸せなことだったと思う。今、こうして富士に歩いていた時の記憶を頼りに、文章を書いてはいるが、現状と当時の違いについて書けばきっと単行本十冊では足らない内容になるだろう。あまりに多すぎて書けないと思うが、長い間、更新していけばいつか触れられる機会もでてくるかもしれない。今は忘れよう。

 一杯目のウィスキーを飲み終え、買っては廃棄していく文庫本を開いてから二杯目を注文した。彩りが足らないと思い、煮込みを注文した。文庫本にウィスキーと煮込み、当時はそれで人生は豊かになると信じていた。

 そんなこんなをしていると、時間はやがて過ぎ、楽しい時間がやってきた。退屈な営業を早めに引き上げて、彼がやってきた。 

ウィスキーの瓶を片手に池袋から富士山を目指し始めた九

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Photo by Yoav Aziz on Unsplash

 

 この店で支払いを安く済ませたいのであれば、ポテトがおすすめだ。ボトルを入れて、お通しをカットすればずいぶん安く飲める。ただ客単価を異様に上げるお通しも、自店で見慣れてみれば、意外と体に良いものだと許容できるようになるのかもしれない。お通しはカットせず、キャベツと塩昆布がのったそれはカットせずにもらうことにした。

 カウンター席の前にあるガラスには炭火の素が弾けて怪我をしないよう、ガラスが張られている。真空を挟んだ向こう側には無数の粒子が汚れとして付着している。毎日拭いてはいるもののそのすべてを拭き取ることは難しいように、たとえ目の上のたんこぶと思われるような私自身も、どこからともなく沸いて出るゾンビのようにカウンター席へへばりつき、ウィスキーをかっくらう。口からは無限の宇宙の可能性について語るような言葉が紡がれるものの、それらは漂う塵のようなもので、要は飲んだくれの挨拶のようなもの、休みの日にはお店に顔を出して酒を飲むのだ。

「富士山にいくんだって?」

 そんな人間に声をかけるのだから店長というのはきっと人権を破棄した働く労働マシーンなのだろう。八十年代を彷彿させるようなカクカクとしたパーツが組み合わさったような顔の店長は、鍛え上げられたハートを燃やして顔面を笑顔へと変形させた。

「はい、歩いて行ってきます」

 季節は夏だから富士山と聞いても別に変なようには思わないだろう。頭の中だけでも、それは別に違和感を覚えない。「へぇ」とも「すごいね」ともならないのは、きっとすごく微妙な事を言っているからだと思う。共感するにもそもそも想像もできないし、興味もない。それを補わないのは、返事にかける時給がもったいないからだろう。いちフリーターにかまうほど人間は暇にできてはいないし、話そうが話すまいが酒飲みはカウンターへと返ってくるのだ。挨拶は一言二言でいい。

 それを心得ているのか、店長はお通しを持ってきた後、すぐにレジ横のパソコンへと引きこもった。

 キッチンを覗けば、肌色の濃い外国人がチャーミングな笑みでこちらに手を振るのだった。

ウィスキーの瓶を片手に池袋から富士山を目指し始めた八

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Photo by Mathew Schwartz on Unsplash

 

 お店に入ってまず感じるのは、壁に染みついた焼き鳥の煙と衛生環境にわずかに気を遣った漂白剤の塩素の匂いだ。後者に関してはおそらく働いているときの感覚を脳が覚えているのであろう、ほのかに感じるだけで、すぐに記憶の奥へと消えていった。

「どうも、いらっしゃいませ」

 印象に残っているのは、ディズニーのキャラクターにでも登場しそうな大きな体格にパツンパツンの白シャツを纏った店長だ。しかし時に店長は半年で転勤し、今は細身の神経を五重に守らなければ生きていけないような気が弱そうな顔をした店長がこの店にはいる。その店長が少しはにかみながら出迎えてくれる。

 言わずもがな、スタッフが自店に飲みに来れば、ただそれだけで身内のネタとなり、笑いの要素など一切なくても半笑いか引き笑いか、それとも呆れに呆れた果ての笑いかが返ってくるもの。ここでは半笑いが返ってきた。

 どうしたの、とも言われないのは、たまに飲みに来ていたからだ。愛着をこじらせれば、堕落を酒で塗り潰しに使うようになる。その本質は愛が着くのではなく、愛を求めに来ているのだ。

 真実、自分が働く居酒屋なんてどうでもいいのに、こうして来ていることがそれを否定させる。否定こそ愛なのかもしれない。

「ロック、ダブルで」

 ポッケにしまった酒瓶が共鳴するように揺れた。

ウィスキーの瓶を片手に池袋から富士山を目指し始めた七

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Photo by Joaquin Paz y Miño on Unsplash

 

 オレンジの看板が目に留まる。それは暗闇に漂う蛍のように、止り木をなくした人をからとるかのような曖昧な強さの光を灯し、腰を下ろす場所を示している。看板の灯りからは太い電源コードが伸びていて、お店の外壁に力強く刺さっている。お店がやっている間は点灯し、それ以外は消えている。

 さて、とお店を見上げた。店内に人影は見えないが、普段吸っている退屈な空気が店の中にも漂っていることがわかる。道行く人々がこちらを一瞥し、疲れた足取りで帰路へ向かうのが見えた。私は水を流せば綺麗な滝にも見える階段を、一段ずつ登りながらお店の入り口へと向かった。

 

 ガン、という音が鳴るのは、扉の立て付けが悪いから。続いてピンポンという音でスタッフはお客が入店したことを知る。私は正しくその段取りを踏んで、扉をガンと押して、ピンポンと鳴るセンサーに姿を触れさせながらお店へと入った。

ウィスキーの瓶を片手に池袋から富士山を目指し始めた六

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Photo by JuniperPhoton on Unsplash

 

 たぽん、という音が耳に心地よい。体が揺れる度に砂利とウィスキーの瓶が手の中で揺れる。足下から伸びる白線は店に着くまで三度ある交差点まで伸びて、ほろ酔いの気持ちで足を運ぶ私を案内してくれる。最も引っ越して一年通った道を間違えることもないのだが。

 

 それでも羽衣のようなアルコールのふわふわした足取りは地面に誘導してくれる白線くらいあった方がありがたい。脳が溶けるとはきっとこういうことなのだろう。ストレートで飲むのだから、ウィスキー原液を体内に注ぎ込んでいるのだ。正常な成分が濃すぎる液体を薄めるために体の中で体で千切れ落ちていたとしても驚きはしない。溶けている、という実感こそないが、脳の血液に邪悪な塊が巡っている感覚くらいは感じている。

 

 それでもキャップを回すのだから、どうかしてるのかもしれない。今どきではないのだろうが、一昔前なら酒瓶を持って歩くなんて当たり前だったんじゃないだろうか。人間には遺伝子があるのだから、昔の習慣がこうして現代で現れてもなんらおかしいことなんてないだろう。

 

 冷や水を浴びたような風が渦を巻いて歩く脇を吹き抜けていく。提燈に光を灯すように、道行く軒下の電気が青暗い夕焼けにぼんやりと浮かぶ。その光を背に背に十分も歩けば、働くお店に着く。

 

 駅に従属するように駅舎に隣接した二階建ての建物の二階。そこが私の働いている店だった。