ウィスキーの瓶を片手に池袋から富士山を目指し始めた十

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Photo by Priscilla Du Preez on Unsplash

 

 カウンター席の横にある赤い暖簾の先には、蛍光灯の光とだらけた空気がある。そこは本来職場として機能するのに相応しい緊張感があるべきだが、長年勤めたスタッフが多いこの店では、日々釣りやゲームに勤しむ大学のゼミのような空気感がある。

 そんな中で仕事をしているわけだが、皆慣れた物で電波に乗せて飛び交うオーダー表の一切を流麗な動作と共に消化していく。従来社員であれば、長くとも二年、三年で代わる所を定住したフリーターはゆうに五年を超えていく。十年、七年勤めたスタッフがざらにいるこの店はもはや正月にはこたつを囲ってミカンの皮でも剥いているかのような安心感がある。思えばそんな職場この店だけだった。訳あって今は退職し、そんなありがたみをつけ込んだような環境から離れてしまってはいるが、将来この店以上に馬の合う場所はないだろうと思った。たかがアルバイトでそんな経験ができたのは貴重なことだろう。

 だからこそ、この店にいる間は、なにかできたらと思っていた。エンターテインメントではなく、他にはない唯一無二の出来事が寄ってきたなら、そんな事を思った。今思えばひどく幸せなことだったと思う。今、こうして富士に歩いていた時の記憶を頼りに、文章を書いてはいるが、現状と当時の違いについて書けばきっと単行本十冊では足らない内容になるだろう。あまりに多すぎて書けないと思うが、長い間、更新していけばいつか触れられる機会もでてくるかもしれない。今は忘れよう。

 一杯目のウィスキーを飲み終え、買っては廃棄していく文庫本を開いてから二杯目を注文した。彩りが足らないと思い、煮込みを注文した。文庫本にウィスキーと煮込み、当時はそれで人生は豊かになると信じていた。

 そんなこんなをしていると、時間はやがて過ぎ、楽しい時間がやってきた。退屈な営業を早めに引き上げて、彼がやってきた。