ウィスキーの瓶を片手に池袋から富士山を目指し始めた三

   ウィスキーの瓶を片手に

     池袋から富士山を目指し始めた三

 

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Photo by MARK S. on Unsplash

 

 有給申請の書類を書き終え、シルバーのコールドテーブルの上にペンを置く。申請日数の枠には十の数字が書かれている。

 

 十日ーー

 

 このお店に入って以来、五日と離れたことはなかった。一週間でほぼスタッフの全員の顔を見るため、仮に三、四日休みが続けば、誰々に会っていない、あの人は元気にしてるか、なんて想像が膨らむ。二連休でさえ、一人部屋で天井を見上げては、今日は予定がないと復唱するような日々なのだ。カレンダーの過ぎた日にちに丸をつけるだけでも気が重くなる。

 

 お客のいない居酒屋のデシャップ(キッチンがホールのスタッフへ料理を渡すところ)で、スマホをいじる同僚を前に、「うーん」と唸ってみせるが反応はない。

 その時、ふと頭の中に一つの案が降ってきたことに気づいた。そうだ、これにしよう。

「富士山に歩こう」

 ちらりとだけ、同僚の目がこちらを向いた。しかしすぐに画面へと視線を戻す。

「富士山に行こうと思う」

「おお」と今度は先ほどより明確な反応が返ってきたが、別に興味を持っている様ではなかった。口元だけ笑いの形をとってはいるものの、先ほどから画面に向けられた目は執拗なナンパ男のように周囲の状況を無視して目当ての女を追っていた。彼が動くのはお客さんか社員が来た時だけだ。

「歩いて行く」

「まじか」

 意外にも今度はしっかりとこちらを向いた。しかし向いただけで、やはり興味の中心はスマホの中か、その向こうにいる女へと向いているのであろう。人付き合いのマニュアル本にでも書いてあったのか、必要最低限の反応だけを返して、元の姿勢へ戻った。そこまでいけばさすがの私もこれが人の気を惹くような話ではないことがわかる。

 なぜ行こうと思ったか、とか細かい理由は思いつかなかった。ただ十日という日にちと、あいた日数で何ができるか、というのを考えたらたまたま思いついたのだ。過去一日で六十キロまでなら歩いた経験がある。そこから導き出されたのかもしれない。

 とにかく、富士山に行こうと思ったことに理由なんてなかった。ただ空から降ってきて、たまたま目の前に落ちてきた、それだけなのだ。