ウィスキーの瓶を片手に池袋から富士山を目指し始めた五

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Photo by Filipe de Rodrigues on Unsplash

 

 酒が足らない、というわけではない。元々自分は酒を飲む方ではない。それでも居酒屋に長く勤めていれば、絶えずウィスキーの瓶を持ち歩く程度にはなる。ゲームの中なら、剣士が剣を持つように。私は酒を持っていた。

 

 部屋に時計はない。ゴミ袋にせっせと詰めて廃棄した記憶の中には、ありとあらゆるものがあるが、あれは確か小型家電の日に捨てたはずだ。家には湿気た空気と狂った爺の二つだけを置いて私は生活していた。これからよっぽどましな部屋に引っ越すことになるのだが、このときの私は、作務衣にサンダル、仕事で着るユニフォームと下着を二枚、そして冬を越すためのオイルストーブに、物を書くための机と椅子、そして万年筆と紙だけを備えていた。

 冬は寒かった。四輪ついたオイルストーブの足にすがりつくように抱きついて眠った。いい思い出じゃない。思い出せば若干の吐き気を催す不快な記憶だ。時折こうしてかつての記憶を思い出す。

 作務衣にはポケットが一つついていたが、そこにはお札と小銭が入っていた。財布は持っていない。保険証ごと財布は手放した。お守りのように飾られたウィスキーの小瓶を持って、家を出て、いつもの通勤路を歩き出した。